本を高く積め

本をつい買ってしまう人の雑記です。

悪夢的な酩酊感——Salvatore Scibona, "Do Not Stop"

Salvatore Scivona の “Do Not Stop” を The New Yorker(Web)で読んだ。海兵隊員でティーンエイジャーの Vollie は、沖縄の基地からベトナム戦争に派兵され、輸送車を運転する任務につく。あるとき彼の立ち寄ったケサンの基地が、北ベトナム軍の襲撃にあう。

Scibona は1975年生まれの作家で、これまで New Yorker 誌などに短編を発表し、同誌が選んだ "20 Under 40” (40歳以下の作家20人)に名を連ねている。長編を一作発表し、二作目の刊行を控えている。

これは既刊。

The End: A Novel (English Edition)

The End: A Novel (English Edition)

 

 こちらは2019年3月に刊行予定のようだ。

The Volunteer: A Novel (English Edition)

The Volunteer: A Novel (English Edition)

 

 "Do Not Stop" を支配するのは、あっけない死、状況もわからない中で襲撃される混乱、アメリカ軍の蛮行、乱れたモラル、飲酒による酩酊。そういったものが、言い換えや言い直しを多用し、難解ではないが整ってもいない文章で綴られ、物語全体が一種の悪夢のようだ。沖縄で飲んだくれていた次の瞬間にはベトナムに着いているという時間の飛びかたも夢のようだし、 自分自身や置かれている状況に対する Vollie の自意識がほとんど伺えないのもまた夢っぽい。これは Vollie の輸送任務のモットー “Keep Going” とも共鳴している。言い換えるにこのモットーは、何も考えず、感じるなというふうにも解釈できるからだ。

教訓はこうだ、大事に思うあまりどこに目をやっても自分がそれを失う光景が見えてしまうもの、そういうものはかならず取り上げられる。たとえ自分の命であっても。

 Vllie の行動には直接的ではないけれど自傷的なところがある。襲撃のさなか、どこから撃たれるかわからない場所を弾薬を取りに走ったりと無謀な行動もとる。その背景には上に引用したような、運命というものに対する諦めにも似た達観があるように思える。

The New Yorker [US] January 21 2019 (単号)

The New Yorker [US] January 21 2019 (単号)

 

Salvatore Scibona. “Do Not Stop.” The New Yorker, 21 Jan. 2019.

 

死んだ「偉大な父」をめぐる葛藤――Taymour Soomr, "Philosophy of the Foot"

 The New Yorker に載った Taymour Soomro の "Pholosophy of the Foot" を読んだ。この作者が発表する初めての作品だ。パキスタンのカラチに母親と住んでいる男 Amer。死んだ父が遺してくれるはずだった邸宅がおじの手に渡ってしまい、母子ふたりはアパート住まいを余儀なくされており、母親はそんな境遇をしじゅう嘆いている。あるとき Amer は、家の前の路上で靴の修理をする少年と交流をもち、父の遺品の靴を一足預ける。 

The New Yorker [US] January 7 2019 (単号)

The New Yorker [US] January 7 2019 (単号)

 

  ふたりの暮らしに影を落としているように見えるのは、亡くなった父親の存在だ。外国の首脳といっしょに写った写真が遺されていたりするこの父親は、亡くなってもなお「偉大な父」なのだ。
 そのような状況に置かれた Amer にとって、少年はささやかな逃避あるいは救いのよすがになる。理由はいくつか考えられる。少年もまた何らかの争乱により故郷の村を追い出された経緯があるので家を追われた Amer と共通点があるし、父が亡くなってもなお「息子」という役割を抜け出せない Amer が、疑似的に父親役をできる相手だからかもしれない。それからもうひとつ。少年は「足に耳を傾けるんだ」と告げる。「足は、進めとか戻れとか、じっとしてろとか伝えてくれる。耳を傾ければわかるんだ」。「今」に身を任せろという少年の「哲学」は、過去にとらわれた Amer の耳には新鮮に響いたのかな、と思える。

 しかし少年に同性愛的な関心を抱いた Amer は、相手のすげない拒絶にあう。Amer の行動は、ふたり以外のだれかに知られたり咎められたりすることはない。この作品は Amer の行為を、個人と社会との軋轢とかそういった問題としてではなく、個人の倫理の問題として取り上げている。うらみに心が凝り固まってしまったように見える母親と、日々に倦んでしまったかのように無感動に暮らす息子。その息子が救いを求める行為のなかで犯す過ちを描いた短編なのだ。

Taymour Soomro. "Philosophy of the Foot." The New Yorker, 7 Jan. 2019, www.newyorker.com/magazine/2019/01/07/philosophy-of-the-foot/

いけすかなくも病的な語り―― Amos Oz, "All Rivers"

イスラエルの作家アモス・オズ(Amos Oz)の "All Rivers" を The New Yorker で読んだ。1963年の作品で、ヘブライ語からの翻訳で、訳者は Philip Simpson。語り手の青年 Eliezer は28歳の予備役兵。趣味の切手収集の用件で偶然訪れたテルアビブで、5歳年上の女詩人 Tova と知り合う。咳の発作におそわれても煙草を吸いつづけ、手助けをしようとしても触れられることを拒む Tova の理解しがたい言動に困惑しつつも激しく惹かれていった自分を、Eliezer は振り返って言語化しようと悪戦苦闘する。
The New Yorker [US] January 14 2019 (単号)

The New Yorker [US] January 14 2019 (単号)

 
 Eliezer は容姿に恵まれていて女性にもてており、自信家でけっこういけすかないやつである一方、語りには病的で危ういところがある。ものごとを順序立てて語ること、正確に語ることに困難を感じていて、それに自分でいらいらしている。あとで語るべきことを先取りしてしまっては律儀に自分でそれを反省して見せ、かと思えば、テルアビブにもっていった切手にかんする同じ描写を繰り返したりもする(ちなみに彼は他のコレクターと切手の交換をするためにテルアビブに行くのだ)。
 この混乱は Eliezer が1953年の第二次中東戦争で戦場にいたことと無関係ではないはずだが、あからさまにトラウマが強調されるわけではない。彼は戦場である大きな手柄をあげているのだが、それをとくべつ誇りにするわけでもなく、しかし印象的にふりかえる。信用できるようなできないような語り手、事実を虚偽なく語ることへの困難さを自覚した語り手というのはかくべつ目新しいものではないと思うのだが、戦争の影を感じさせつつもあからさまには見せないというさじ加減。

Amos Oz. "All Rivers." Translated by Philip Simpson. The New Yorker, 14 Jan. 2019, www.newyorker.com/magazine/2019/01/14/all-rivers

ちなみにオズは昨年、2018年12月28日に亡くなっている。邦訳は代表作とされる『ブラックボックス』を含め何作も出ているようだけれど、手軽に買えるわけではなさそう。
ブラックボックス

ブラックボックス

 
地下室のパンサー

地下室のパンサー

 
イスラエルに生きる人々 (晶文社アルヒーフ)

イスラエルに生きる人々 (晶文社アルヒーフ)

 

 

情感と空白――高山羽根子『オブジェクタム』

高山羽根子『オブジェクタム』(朝日新聞出版)を読んだ。

 

オブジェクタム

オブジェクタム

 

 表題作「オブジェクタム」の主人公である少年は、街のあちこちに張り出される壁新聞の作者が祖父だったことを偶然知る。大人になって街を訪れた彼は、祖父が新聞を作っていた場所へある物を返しに行く。

「太陽の側の島」は書簡体小説だ。第二次世界大戦を思わせる戦争の最中、戦地にある南洋の島で開墾の任務につく夫と、ひとり息子とともにその帰りを待つ妻の手紙のやりとりで構成されている。夫は先住民の死人をめぐる不可思議な風習を書き送り、一方、妻は異国の少年をかくまう。
 方や少年の直面する日常のなかの謎、方や互いを思いやる夫婦の温かいやりとり。そこに張り付いている情感はフィクションのなかで見慣れたものにもかかわらず、説明されない大きな余白、意味にあいた大きな穴が口をあけていて、読み終わってもどかしさに襲われる。
 いちばん楽しかったのは「L. H. O. O. Q. 」。亡くなった妻のかわいがっていた犬がいなくなり、語り手の男はその行方を探す。生物は世界に自らを馴染ませて姿をくらますようにできている、という一風変わった考えを持ち、妙な女にふらふらと引き寄せられている男の捜索がスムーズに行くはずはなく、その脱線が軽妙で、三編のなかでいちばん好き。

意外とリーダブルなちょいパラノイア小説――リチャード・パワーズ『舞踏会へ向かう三人の農夫』

リチャード・パワーズの『舞踏会へ向かう三人の農夫』を読んだ。最近、河出文庫で復刊されたが、読んだのは前に刊行されたみすず書房版だ。

 

 上の二つが河出文庫版。

 

舞踏会へ向かう三人の農夫

舞踏会へ向かう三人の農夫

 

 こちらが実際に読んだほう。二段組だ。

アウグスト・ザンダーの写真「舞踏会へ向かう三人の農夫」を見てから作者や被写体について想像を巡らせる「私」、パレードの人混みの中に見かけた赤毛の女性の姿を追い求めるピーター・メイズ、そして写真のなかの三人の農夫たちの物語が、かわるがわる展開する。
「私」のパートでは、第一次世界大戦、写真という複製芸術の誕生、自動車の生みの親であると同時に「平和船」の発案者でもあったヘンリー・フォードといった事象に関する思索が展開され、個人と時代の関係、過去と現在との連関、人物について「書く」ことの意味など、さまざまなテーマに踏み込んでいく。
「私」のパートはあまり物語が動かないのだが、三人の農夫のパートはもとより、16章あたりからプロットどうし、テーマどうしのつながりが見え始めてからは案外どんどん読み進めることができる。
ただ、人物どうしの姻戚関係が入り組んでいたり、パート同士で矛盾と(少なくとも一読した限りでは)思われる記述があったりと、何が起こっているのかかなり掴みづらいところがあって、そのためかなり足元がおぼつかない読後感を持たされる小説だと思う。三人の農夫のパートは、いずれかの人物の妄想の可能性がある。ピンチョン的なパラノイアオブセッションを想起させるが、あちらのように混沌としていたり病的だったりするわけではないような気がした。

強烈な意地にとらわれた男の非-贖罪行為――J・M・クッツェー『恥辱』

J・M・クッツェー『恥辱』を読んだ。
大学で文学を教える独身、離婚歴ありのデイヴィッド・ラウリーは、教え子に手を出して大学を追われ、田舎で小さな農園を営む娘のもとに身を寄せる。いままでの価値観とはまったくそぐわない生活に戸惑いつつも、近隣の動物クリニックの仕事を手伝いはじめるデイヴィッドだが、ある日、娘ともども突如とんでもない事件にみまわれる。
恥辱 (ハヤカワepi文庫)

恥辱 (ハヤカワepi文庫)

 

まずもってそこそこモテてきたインテリ初老男の自意識がたいへん嫌な感じで描かれている。女性の容姿を値踏みし、手ごめにした相手から告発されても反省などせず開き直る。デイヴィッドはまったく同情できない人物だが、強烈な「意地」が前面に出た会話は面白かった。

一方でデイヴィッドは、自分の娘の身に災難が降りかかれば動揺し、彼女が(デイヴィッドから見ると)危険な土地に留まろうとするのをなんとかやめさせようとするが、聞き入れられずに煩悶する。このあたりの会話は父と娘の意地の張り合いといった感じでもどかしいのだが、教え子を口説いて開き直る一方、妙に「常識的」な言葉を口にするデイヴィッドの言動が可笑しくもある。
背景に目を向ければ、この作品で描かれる南アフリカは殺伐としていて、隣人が常に銃を携行していたり、物騒な地域では車を止められなかったりする。アパルトヘイトは終わっても人種問題は終わらず、黒人と白人のあいだには時に敵愾心がみなぎる。
クリニックで、デイヴィッドは病んで安楽死を待つ動物たちに触れるが、この行為は贖罪とも救いとも安易に結びつかないようになっている。行為を「意味」に還元することをこの作品は拒んでいるように思う。

評価されづらい作家の突出した名作——シャーウッド・アンダーソン『ワインズバーグ、オハイオ』(上岡伸雄 訳)

 シャーウッド・アンダーソン『ワインズバーグ、オハイオ』の新訳が新潮文庫から出た。一九一九年に刊行されたこの作品は二十二の物語からなる連作短編で、新潮文庫の旧訳(橋本福夫訳)、講談社文芸文庫小島信夫・浜本武雄訳など、これまでに何度も邦訳が出版されている。舞台は米国オハイオ州の架空の田舎町ワインズバーグ。その住人たちの秘められた心のうちに、一編一編の物語が焦点を当てる。町の新聞社で働く若者ジョージ・ウィラードがときに話の聞き役として、ときに傍観者としてあちこちに登場する。

 

ワインズバーグ、オハイオ (新潮文庫)

ワインズバーグ、オハイオ (新潮文庫)

 
いま・ここへの違和感

 登場人物の多くは、いま・ここ(にいる自分)への強い違和感にとりつかれている。「死」という一編では、ジョージの母エリザベスが若かった頃、《町から抜け出し、服からも、結婚からも、体からも、すべてから抜け出し》たい思いで、闇雲に馬車を走らせた出来事が描かれる。「冒険」のアリス・ハインドマンは、結婚を約束したのに町を出て戻らない恋人を待つうちに、《どうして私はここに一人でいるの?》という狂おしい疑問にとらわれる。

ちょっと鼻じらむ一般化

「狂信者」に登場する農場主の娘ルイーズ・ベントリーは、本当の人生からはじき出されたような気持ちでいる。《自分は世間のすベての人々から壁で隔てられ、ある内輪のグループの外側にいるような気が》している。衝動的に恋人を作っても求めていたものと何かがちがう。語り手はルイーズのことを《のちに産業社会が世界に大量に送り出すことになる、神経過敏な女性たちという人種の一人》と称する。

 この一節を読んで鼻白んだ人もいるかもしれない。人の心を社会構造で説明する単純さ。女性に対する過度な一般化。そう、アンダーソンにはどうにも大仰で、そのくせ単純なところがある。塗料の通販会社を経営していた作者は三十代後半で作家デビューし、四十三歳で『ワインズバーグ』を発表して名声を得る。先輩作家としてフォークナーやヘミングウェイの尊敬をかちえたが、後に二人とも自作でアンダーソンのことをパロディ的に揶揄している。作者の意見が前面に出すぎる傾向のせいか、長編の評価は高くない。

女性の神格化・ミソジニーへの批判的な切り口

 けれど『ワインズバーグ』は一味ちがう。「神の力」のカーティス・ハートマン牧師は、自分に信仰への熱意が欠けているという不安にとらわれているが、女性教師ケイト・スウィフトのむき出しの肌を覗き見てしまったことで心境が一変。ケイトのことを神が与えた試練と解釈し、誘惑にあらがうなかで熱い信仰心がみなぎるのを自覚する。自己表現に苦しむ女性たちの孤独は深まるばかりだが、男たちは女のことをいいように解釈することで、目の前の違和感から逃避するという対比がなされているのだ。

 似た例はほかにもある。「品位」に登場する醜い男ウォッシュ・ウィリアムズは女を忌み嫌い、《男たちはみんな、自分の人生を雌犬〔ビッチ〕に操られてしまうじゃないか?》と毒づく。憎悪の底にあるのは、かつて自分の献身的な愛を踏みにじった妻とその母親への恨みだ。しかし今となっては、女に裏切られた情けない(と本人が無意識に思っている)自分を、女を憎んでいるあいだは忘れられるという動機があるように見える。

 意図的どうかは別として、こういう男女の描き分けは《神経過敏》に還元できないジェンダーの問題を浮き彫りにしていて、短編どうしの関係で読ませる連作短編の面目躍如だ。簡潔さと厚みの両立。登場人物の孤独や閉塞感とマッチする細分化された形式。アンダーソンは長編よりも短編の名手として知られ、収録作のいくつかはまず短編として雑誌に掲載されたが、彼が『ワインズバーグ』を連作としてまとめ上げたメリットは数えだすときりがない。だからこそ本作は、アンダーソン作品のなかでは突出した名作として読まれつづけているにちがいないのだ。

シャーウッド・アンダーソン『ワインズバーグ、オハイオ』上岡伸雄 訳.新潮文庫,2018年.