本を高く積め

本をつい買ってしまう人の雑記です。

問題をかかえた中年についての小説ーーC・J・チューダー『白墨人形』(中谷友紀子 訳)

増殖する「白墨人形」

 1986年、イングランドの小さな町アンダーベリーの森で、頭部のない少女のバラバラ死体が発見される。町に住む12歳の少年エドと仲間たちは思わぬ形でこの事件と関わりをもつことになる。30年後、同じ町で教師をしているエドに、過去の事件を思い起こさせる差出人不明の手紙が届く。『白墨人形』は、1986年と2016年のパートが主人公エドの語りで交互に繰り返されるミステリーである。英国生まれの作者C・J・チューダーのデビュー長編だ。 

白墨人形

白墨人形

 

  12歳のエドはいつも同じ仲間たちとつるんでいる。小太りのおどけ者、リーダー格の「ファット・」ギャヴ(ギャヴィン)、気の優しいホッポ(ホプキンズ)、紅一点のニッキー、歯列矯正具をはめた「メタル・」ミッキー。エドは親の干渉をわずらわしく思い、恥じてもいる。ホッポは家が貧しく、ニッキーはどうやら親に暴力をふるわれているらしい。ミッキーはギャヴ以外の相手には嫌みばかり言っている。それぞれの悩みや、仲間内での微妙な力関係が丁寧に描かれていく。
エドの発案で5人はたわいない遊びを始める。チョークで棒人間を描いて、秘密のメッセージを伝え合うのだ。棒人間+円+びっくりマークで「グラウンドに至急来い」といった具合に。ところがこの「チョークマン」のシンボルが何者かによって勝手に使われて増殖し、ついには陰惨な事件の前触れとなるばかりか、2016年のエドの目の前にも現れて、彼を不安に陥れいる。不吉な描写や場面の積み重ねにより、本作はスリラー小説としての盛り上がりを見せる。

問題とわだかまりを引きずる人たち

 一方でこの小説は、過去の問題をかかえ込んだまま中年になってしまった人間についての物語としても読める。2016年、ギャヴはパブの店主、ホッポは配管工をしながら同じ町で暮らしていて、エドとの間にまだ交流がある。ギャヴは17歳のときメタル・ミッキーの運転する車で事故に遭って体が不自由になり、その後町を離れた彼をいまだに恨んでいる。ホッポを含む複数の人物が、過去の事件について後ろめたい秘密を抱えている。ギャヴの言葉を借りるなら、「秘密ってのは、ケツの穴と同じ」であり「誰でも持ってて、汚さに違いがあるだけ」なのだ。交流があるだけに昔からのわだかまりを引きずってしまうというのは、たいへんリアルで生々しい描き方だ。
エドはというと、教師をしながら昔の家に住みつづけており、間借り人で10歳以上も若い女性クロエに惹かれている。クロエの容姿について「最初は癖のある変わった容貌に思えても、にっこりしたり、片眉を軽く上げたりしただけで、がらりと印象が変わることがある」と心の中で判定しているエドは、女の子たちの容姿に興味津々だった12歳のエドと重なるところがある。「結局のところ、本当の意味で大人になる人間などいない気がする。背が伸びて毛深くなるだけだ」と奇しくも2016年のエドは語る。
 彼は小さい頃から盗癖に近い収集癖があり、それを大人になっても克服しきれていないようだし、アルコールの問題も抱えているが「自分はアルコール依存症だとは思わない。溜めこみ屋だと思わないのと同じく。ちょっと飲むのと、ものを集めるのが好きなだけだ」と考えていて、現実が見えていながら認めようとしていない。読者としては、語り手に対して若干の不安を抱きもする。
 本作ではいわゆるクリフ・ハンガー的な手法があざといまでに使われており、衝撃的な展開を予告してすぐ別の話に移ってしまうということがしばしばあるが、これは語りが凝っているとかもったいぶっているという以上に、なかなか物事の核心に切り込めないエドの心性を反映しているようにも思える。その意味で『白墨人形』は、過去を抱え込んだ主人公の目で世界を見るというひねりが加わった作品なのだ。

優れた冒険・青春小説――エリザベス・ウェイン『コードネーム・ヴェリティ』

エリザベス・ウェイン『コードネーム・ヴェリティ』を読んだ。第二次世界大戦中のヨーロッパが舞台の冒険小説であり、青春小説だ。作品は2部に分かれていて、ほぼ全編、登場人物の手記という体裁をとっている。
コードネーム・ヴェリティ (創元推理文庫)

コードネーム・ヴェリティ (創元推理文庫)

 

 1943年、イギリス特殊作戦執行部員の若い女性クイーニーは、潜入先のドイツ占領下フランスの町オルメで捕虜になり、英国内の情報を明かす手記を書かされることになる。彼女は親友の女性パイロット、マディの生い立ちを小説風の文章につづりはじめる。これが第1部にあたる。

第2部では、クイーニーを乗せた飛行機を操縦してフランスに潜入したマディが、砲撃を受けてやむなくクイーニーを先に脱出させて着陸し、現地のレジスタンスのもとに身を寄せてクイーニーの消息をさぐるようすを描く。
まず青春小説として楽しく、庶民の出で野心的だが情緒的には素朴なところもあるマディと、上流階級の出身で誇り高いクイーニーという、タイプのちがうヒロインふたりが親愛の情を深めていくようすが生き生きと描かれている。
第1部で書かれたことが第2部でマディの視点から書かれなおすことで、ことの全貌をあらわになるという仕掛けが効果的に積み上げられている。同時に、この形式は、ふたりが引き裂かれた状態でおたがいへの思いを吐露する形になっており、クイーニーとマディとの関係にあるロマンス的な雰囲気にも一役買っている。
終盤でマディはたいへんな決断をくだす必要に迫られるのだが、肝心の行為はあっさりと描かれる一方、その結果がいろいろな人物にもたらす余波は実にエモーショナルに綴られている。クイーニーの託した使命をマディがどのように受け止め、受け継いでいくかということがこの小説のとても大事な部分だ。
悪役も含めた登場人物の魅力やその描写の巧みさ、冒険小説や青春小説として楽しさなど、いろいろな面で読み応えのある小説だ。
(吉澤康子 訳,創元推理文庫東京創元社,2017年)

痛快娯楽なだけじゃない——エルモア・レナード『オンブレ』(村上春樹訳)

村上春樹のレナード愛

 エルモア・レナードの「オンブレ」はメキシコにほど近いアメリカ南西部を舞台にしたウェスタン小説。語り手であり手記の書き手である《私》ことカール・アレンは、「男〔オンブレ〕」という異名をもつ謎めいた人物ジョン・ラッセルと同じ駅馬車に乗り合わせる。素性も旅の目的もさまざまな七名を乗せて馬車は出発するが、道中で強盗の襲撃にみまわれる。
 本書に収録されている中編「オンブレ」と短編「三時十分発ユマ行き」は、それぞれ一九六一年と一九五三年に発表された作品だ。訳者であり、新旧問わずアメリカ小説を精力的に翻訳している村上春樹は「あとがき」で二作について《むずかしいことは言わず、ポップコーンでも食べながらのんびり楽しんでいただければと思う》と述べ、レナードという作家の西部小説や、のちに書かれるノワール小説の魅力を愛着を込めて解説している。 

オンブレ (新潮文庫)

オンブレ (新潮文庫)

 

「異邦人」ジョン・ラッセル

 「オンブレ」の最大の見どころは、けれん味たっぷりに描かれるジョン・ラッセルの活躍だ。彼は襲撃に際し、悠然と銃を構えて強盗たちの一人を仕留め、一味を追い払う。しかし、奪いそこねた金を目指して彼らが戻って来るのは必至。旅人一行は一名を人質として連れ去られ、おまけに馬を奪われた状態で、強盗たちの追撃から逃げつづけることになる。実のところ、狙われた大金の持ち主にも後ろ暗いところがあるとわかって味方も一枚岩でいられない。そんな一同を道連れに、ラッセルは悪党一味との戦いを繰り広げる。
 ラッセルはけっして善意の人ではない。山道をすいすい歩ける彼は、ほかの者たちがついて来れるかなどお構いなし。さらには敵に向かって、人質を撃てばいいとまで言い放つ。そんな彼に対して語り手のカールはおののく。《ラッセルは冷静にして冷淡だった。それは私の背筋を凍らせた。》もしも人質の命を気にかけないのであれば《我々の命だってまた、彼にとっては同じ程度の重さしかもたないはず》なのだ。
 ラッセルの生い立ちは謎めいている。血筋の四分の三は白人だが、あとの四分の一はメキシコ人。また、幼い頃にアパッチ族に拉致され、先住民の集落で暮らした経験をもつ。ある人物の言を借りれば、《白人にもなれるし、メキシコ人にもなれるし、インディアンにもなれる》人間というわけだ。堅気の白人として生きる気はなく、馬の密売をして暮らしている。生い立ちも考え方も、いわば異邦人なのである。

行動の人間 vs. 言語の人間

 語り手カールとラッセルの対比は印象深い。ラッセルが行動の人なら、カールは言葉を操る人間だ。ラッセルは能動的で、片やカールは受動的。ラッセルは断定し、カールは判断を保留する。彼は異邦人ラッセルの不可解な行いをなんとか自分なりに理解し、説明しようと悪戦苦闘する。語りのあちこちに《判断を下すことを差し控えたい》とか《わたしには分からない》といった言い訳が見え隠れし、苦戦ぶりと及び腰な生真面目さがうかがえる。だからなおさら、真面目さなど歯牙にもかけないラッセルが唯我独尊の行いで事態を打開していくようすが対比によって際だってくる。単に寡黙で強いヒーロを主人公にするのではなく、それと対照的な人物に語らせているのが、物語の妙味になっている。
 一方、併録作の「三時十分発ユマ行き」はストレートに感動的な作品だ。無法者ジム・キッドを護送する保安官補スキャレンを主人公とし、キッドを解放しようとする悪党たちとの攻防や、キッドに芽生えるスキャレンへの敬意を描く。スキャレンは恐れを振り払いつつ責務を果たそうとする地に足のついたヒーローだ。訳者は本書を軽い娯楽作として「二本立て西部劇」になぞらえているが、趣の異なる収録作二編を並べてみればなかなかどうして、いつの間にかポップコーンを食べる手を止めてスクリーンに見入ってしまうような、興味の尽きない一冊なのだ。

エルモア・レナード『オンブレ』村上春樹 訳.新潮文庫,2018年.

柴崎友香『千の扉』~語り手の個性がじわり

 柴崎友香『千の扉』を読んだ。
 義父が団地の部屋を空けることになり、夫の一俊とともにその部屋に越してきた千歳は、義父である勝男から、団地に住んでいるはずの古い知人を探すよう頼まれる。喫茶店でのアルバイト、突然に結婚を申し込んできた夫との関係、ご近所での交流といった、団地暮らしにまつわるディテールが綴られる傍ら、団地に住んでいた勝男や一俊らの経験した過去の出来事も物語に織り込まれる。
 語り手は基本的には千歳の視点に寄り添うことが多いけれど、時折、存在感を伴って前面に現れてくる。視点が変わっても同じ語り手であることが、わりに目立つかたちで示唆されていて、作品に統一感を与えているし、語り手の個性とでも呼べるものがにじみ出ている。
 キャラクターの個性というものをことさらに強調しないのも本作の特徴。個別性、固有性はむしろ、各人物の記憶や経験のなかにあるとでもいおうか。視点が切り替わった直後の段落では、最初、視点人物がだれかわからないこともある。
 主人公のあずかり知らぬところで起こった出来事(たとえば勝男や一俊の過去)が随所に挿入される。このことは、柴崎さんの作品に時折現れる、見ている本人にしか見えない光景への関心、あるものを自分ひとりだけが見ているということへの強いこだわりと、表裏一体の関係にあるように思える。
千の扉 (単行本)

千の扉 (単行本)

 

 

#記憶,団地,家族-夫,義父,時間,建築,コミュニティ
柴崎友香『千の扉』中央公論新社,2017年.

ジェフ・ヴァンダミア『全滅領域』(酒井昭伸 訳)~孤独なヒロインの異世界彷徨

ジェフ・ヴァンダミアの『全滅領域』(酒井昭伸 訳,ハヤカワ文庫,2014年)が映画化されていて、Netflixで見られることに気づいた。監督は『エクス・マキナ』なアレックス・ガーランド

www.netflix.com

原作は読んだ当初けっこう気に入った。そういう割に続編は未読でもうしわけない気持ちでいっぱいなのですが、以前ある所で書いた書評をここぞとばかりに載せておきます。少し下の年齢層を意識して書いた。

 

全滅領域 サザーン・リーチ?

全滅領域 サザーン・リーチ?

 

 

 数十年前に、世界のある地域に現れた《エリアX》。以前は小さな村と豊かな自然があるのどかな土地だった。しかし突然、一帯が《境界》で外部とへだてられた。中は無人地帯となり、調査のために訪れた人たちは生きて帰らなかったり、人格に異変をきたして帰ってきた。この本の主人公である《わたし》は生物学者であり、そのエリアXに政府当局の第十二次調査隊メンバーとして送られる。調査隊の四人は全員女性。《わたし》以外の三人は、リーダー格の心理学者、そして測量技師と人類学者だ。

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神にまつわる変な小噺集——Joy Williams, 99 Stories of God

Joy Williams の 99 Stories of GodKindle で読んだ。「神」というテーマを中心として99の掌編が収められ、明らかに宗教的なテーマをもつ編もあれば、一見何の関係もないものもある。すべての掌編に明確なオチがあるというわけではないが、「神」が登場人物として出てくるものがいくつかあったりと、全体的にほら話や小噺のようでコミカルなトーンだ。

Joy Williams. 99 Stories of God. 2013. Kindle, ed., Tuskar Rock, 2017.

Ninety-Nine Stories of God

Ninety-Nine Stories of God

 

いくつか内容を紹介すると

  • "Actually" … Actually と名付けられた兎の話。
  • "Jail" … 同房の囚人から聖書に関するウンチクを聞かされる。
  • "Giraffe" … 神が自分の肘にいると信じる庭師の話。
  • "Driveshaft" … 神がスタントカーレースに出場したがる。
  • "The Fourth Wife" … 自分の人生は作家である夫に書かれ、作られたものだと信じた妻。
  • "A New Arrangement" … 神が亀を引き取って飼う。

特に、ふたりの男女が気づいたらメキシコの荒野で、理由も相手もわからずに逃げている "Black Lesebre" は、ブライアン・エヴンソン的な不条理が感じられてよい。

神が登場人物として出てくるあたりは、ロン・カリー・ジュニアの『神は死んだ』を彷彿とさせる。

神は死んだ (エクス・リブリス)

神は死んだ (エクス・リブリス)

 

 

ジョイ・ウィリアムズは1944年生まれのアメリカの作家で、短編集 Taking Care (1982) は彩流社から邦訳が出ている。 

ジョイ・ウイリアムズ短篇集 (現代アメリカ文学叢書)

ジョイ・ウイリアムズ短篇集 (現代アメリカ文学叢書)

 

 

 

タフガイの可愛げと暴力の遅延―― Joseph O'Neill "The Sinking of the Houston"

 Joseph O'Neill の "The Sinking of the Houston" を The New Yorkerで読んだ。ニューヨークに住む語り手は三人の息子の子育てに追われ、心の休まる暇もない日々を過ごしている。そんなある日、十五歳の次男がブルックリンに向かう電車で強盗に遭い、財布と携帯電話を奪われる。アプリで電話を追跡した語り手は、盗人を痛めつける機会を虎視眈々と待つ。ついに相手が近くまでやってきた日、語り手は勇んで出かけた矢先に隣人エドゥアルドに出くわす。道すがら、エドゥアルドは語り手に昔話を聞かせる。反カストロ派のキューバ人として、米国の支援を受けた1961年のピッグズ湾襲撃の一員として船上にいたが、作戦失敗に伴い敵方の捕虜になって偶然チェ・ゲバラに会ったという話だ。デリでコーヒーを飲みながら話を聞いた語り手は、続きをせがみたくなるが思いとどまる。
 人生のごく短い時間を切り取った作品で、過去も未来も不確定要素に包まれている。この語り手はかなり血の気が多く、自分のことをタフガイと自認しており、犯罪者の一般的な行動様式を知っているようなのだが、彼自身の背景が明かされないために、この人物の妄想なのか、それとも過去になんらかの修羅場をくぐってきたのかよくわからない。ただ、ハイチの独裁者について息子が話そうとするのを、それはよく知っているとばかりにはねのけるところを見ると、南米のどこかにルーツがある人物なのかもしれない。その彼が隣人の昔話に耳を傾けるうちに、引き込まれてしまうのは可愛げがあり、ちょっとお話をせがむ子供のようでもある。
 昔話の懐かしげなトーンが、作品に漂う暴力性を一時的に取り払ったまま物語が締めくくられるのだが、主人公はこのあとそれとは関係なく他人に暴力をふるうのかもしれない。偶然によって暴力が遅延されたまま宙ぶらりんにされるという話でもあるので、これは偶然とか、運命の恣意性を扱った作品ともいえる。
 ジョセフ・オニールは1964年生まれ、アイルランド出資の作家。邦訳された作品に『ネザーランド』(古屋美登里 訳、早川書房、2011年)がある。

 

ネザーランド

ネザーランド

 

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Joseph O'Neill. "The Sinking of the Houston." The New Yorker, 30 Oct. 2017, 60-64.