本を高く積め

本をつい買ってしまう人の雑記です。

安部公房『砂の女』と『燃えつきた地図』

安部公房の『砂の女』と『燃えつきた地図』を読んだ。

 

砂の女

安部公房砂の女』(新潮文庫,1981年)

昆虫採集に出かけた男は、砂漠のなかの集落に偶然足を踏み入れ、だまされて働き手として囚われ、砂に囲まれた家でひとりの女と暮らすことになる。

驚くほどリーダビリティが高く、三日で読んでしまった。

寓話のようだが、新聞の見出しや失踪の通知、村落の運営の仕組みといったディテールを通して社会の気配を感じさせる。砂漠の集落に囚われるという大きな嘘はあるものの、男の言動や心理にはリアリティがある。またときおりぎょっとするような生々しいセリフや描写がある。

しばらくして、いたわるように、女がぽつりと言った。 「ごはんの支度にしましょうか?」(70)

男の本名が出てくるのが失踪に関する家裁の公文書のみで、本編は「男」で通されているのも名前(個)をはく奪された感じがありよい。

以下は気になったところをメモ程度に。

生徒たちは、年々、川の水のように自分たちを乗りこえ、流れ去っていくのに、その流れの底で、教師だけが、深く埋もれた石のように、いつも取り残されていなければならないのだ。(87)

流動と固定の対比。

「要するに、あなたは、精神の性病患者なんだな……」(150)

精神の性病患者……すごく強烈なdis(?)だ…。

「こんな、貧乏県に、なにが出来るもんですかね……私ら、はっきり愛想つかしております……とにかく、いまのやり方が、いっとう安上りなんだね……役所なんぞに、まかせておいたら、それこそ、そろばんはじいている間に、こちとら、とっとと砂の中でさあ……」(170)

男のなかに目覚めるアナキズムに注目して読んだが、これも十分アナキズムではないか。いや、では人をだまして共同体に縛り付けなくてはいけないアナキズムとは、アナキズムと言えるのか?

Got a one way ticket to the blues, woo woo—

 

(こいつは悲しい片道切符のブルースさ)……歌いたければ、勝手に歌うがいい。実際に、片道切符をつかまされた人間は、決してそんな歌い方などしないものだ。[…]歌いたいのは、往復切符のブルースなのだ。(180-81)

ブルースへの謎の啖呵。

せいぜいまともなところで、片道切符しか知らない、遊牧の民ぐらいのものである。切符は、もともと片道だけのものと思い込んでいれば、岩にはりついた牡蠣を真似て、砂にへばりついてやろうなどという、無駄な試みもせずにすむ。もっとも、その遊牧も、今では畜産業と、呼び名まで変ってしまったが…… (203)

切符の比喩はたぶん重要。

同じ図形の反復は、有効な保護色であるという。 (235)

保護色の比喩もたぶん重要。

「そりゃあ、かならずしも、出来ん相談じゃあるまいねえ……まあ、例えばの話だが、あんたたち、二人して、表で、みんなして見物してる前でだな……その、あれをやって見せてくれりゃ、こりゃ、理由の立つことだから、みんなして、まあ、よかろうと…」 253

集落の老人が主人公に言う。どこが理由が立つんだ…

砂の変化は、同時に彼の変化でもあった。彼は、砂の中から、水といっしょに、もう一人の自分をひろい出してきたのかもしれなかった。

と、いうことなんでしょうなあ。

いま、彼の手のなかの往復切符には、行先も、戻る場所も、本人の自由に書きこめる余白になって空いている。 (266)

脱出することで頭がいっぱいではなくなってはじめて手にする自由。

燃えつきた地図

失踪した夫の捜索を依頼された興信所員の「ぼく」が、調査を進めるうちにやがて自分を見失っていく。

長編だがごく短い日数のできごとをかなり濃密に描いている。

謎あり、乱闘あり、人死にあり、おまけに依頼人の怪しげな弟ありで、意外にかなりページターナー的な要素があり、特に前半はどんどん読んでしまった。

 

が、ふつうの探偵小説が、謎が解明と日常の回復に向かうものだとしたら、やっぱり全然ちがう。手がかりだと思ったものもたしかな証言だと思ったものもそうではなく、むしろ世界への信頼が揺らいでいき、主人公の自我がじわじわと溶けていく過程が、ねっとりした筆致で書かれている。

主人公の別れた妻は、主人公が「逃げ出した」のだという。

人生からよ……駆け引きだとか、綱渡りの緊張だとか、救命ブイの取りっこだとか、そんな際限ない競争から……そうでしょう……私のことなんか、要するに、口実だったのよ……(223)

主人公にも、失踪した依頼人の夫とどこか通じるものがあることがにおわされている。

自分の意志で逃げ出した人間を、当然のことみたいに、つかまえる権利があると思い込んでいるってのが、私には腑に落ちないんだ。(209)

ぼくらは勝手に、人間には居場所が決っていて、逃げた人間には、首に鎖をつけてでも連れ戻すべきだと、決めてかかっているけど……そんな常識に、どこまで根拠がらうのかってことですね……本人の意志にさからってまで、他人の居場所に干渉する権利が、誰にあるのか……(319)

別々の証言者の言葉だけれど、くしくも二人とも「意志」という言葉を使っているのがおもしろい。

「彼」の地図を辿っているつもりで、自分自身の地図を辿り、「彼」の跡を追っているつもりで、自分の跡を追い、ふと、立ちつくしたまま、凍りつき……(328)

一方で、失踪人の勤め先の常務はこんなこと言う。

力ずくで追い出されでもしないかぎり、私はここに、死ぬまでだってしがみついていてやりたいね、人間、飯くって糞たれる、食える場所から動いちゃ損だし、糞だって、同じ場所でたれていたほうが、ずっと通じもよろしいようですしな……(71)

こういう散文的な日常を生きる登場人物たちの言葉にもインパクトがある。ほかにも、酒場でいきなりそのへんにいるゴキブリの子を食う男とか…。

当時の暮らしや風俗を知る小説としても、けっこうおもしろい。テーブルの上にある小型の自動販売機から客が酒を買って、紙コップで飲む仕組みの酒場(87-)とか。「包茎不妊手術の広告」(162)は当時からあったのか…とかも新鮮だった。