本を高く積め

本をつい買ってしまう人の雑記です。

ハードルの高い寓話――Haruki Murakami, “Cream”

 
 村上春樹の “Cream” の英訳を newyorker.com で読んだ。訳者は Philip Gabriel、原典は『文學界』2018年7月号掲載の「クリーム」のようだが、こちらにはまだ当たれていない。 
文學界2018年7月号

文學界2018年7月号

 

  十八歳のとき浪人生だった「僕」は、以前いっしょにピアノを習っていた女の子から演奏会の招待状を受け取る。しかし出向いてみると、会場になるはずの場所には門扉の閉ざされたビルがあるばかりで、人っ子一人いない。「僕」が公園で途方に暮れていると、居合わせた老人が謎めいた言葉——「多くの中心をもち、周をもたない円」——を口にする。

 この短編は、人生において理解不能なものや理不尽なできごとに接したときにどうするか、という教訓的な寓話としてとりあえずは理解できる。理解不能なものに出会ったら、「多くの中心をもち、周をもたない円」を頭に思い浮かべるように、と老人は言う。それに成功することは、愛や共感の達成、ものごとはこうあるべきという感覚に包まれることになぞらえられている。「多くの中心をもつ円」なんてないのだから、それを思い浮かべろというのはやたらハードルが高いし、禅問答のようでもある。この短編が道徳的な教訓話と一線を画している点があるとすれば、ひとつはこの目標のハードルの高さだ。
 さらに言うと、「円」は理不尽な出来事そのもののたとえとして読めると同時に、そのような理不尽を些細なことにしてしまうようなもっと大きな謎とも読めるように書かれていて、この点で寓話としては曖昧さというか、ねじれのようなものがあり、そこがおもしろい。現に「僕」は円のことを考えているうちに、女の子がなぜ彼を騙すようなことをしたのかという謎についてはどうでもよくなっているように読める。
 本筋とは関係ないけれど、「僕」がわざわざ買ってきてしまった花束をどうするかずっとうじうじ考えているのが面白い。最後に近い場面で彼はこれを「処分」するのだが、主人公のなんらかの結果をともなう具体的な行動をするのは、このさりげない場面くらいなのだ。
The New Yorker [US] January 28 2019 (単号)

The New Yorker [US] January 28 2019 (単号)

 
Haruki Murakami. “Cream.” The New Yorker, 28 Jan. 2019, https://www.newyorker.com/magazine/2019/01/28/cream